昭和五十年十月二十九日 御理解 第六十九節「信心は容易いものじゃが皆氏子から難しゆする、三年五年の信心ではまだ迷い易い、十年の信心が続いたら我ながら喜んで我が心をまつれ、日は年月の始めじゃによってその日その日のおかげを受けて行けば立行こうが、容易う信心はするがよいぞ」
本当な事が分かると言う事、信心はより本当な事がわかると言う事ですけど、も自分の心が行き方が、自分の心がそう言う楽であると言う行き方、そう言う心の状態を願い求めて信心をさせて貰わねばいけない、と言う事は覚えて行かねばならない体得して行かねばならない。
先日から或る方が二三年前に息子さんに嫁さんを貰いました、初めの間は大変喜んで本当に家の嫁、家の息子の嫁には勿体ないと言うまあそれは実感を持ってそれはお礼のお届けをしておられました、例えば嫁姑の中でもそう言う様に家の嫁には勿体ないと言う時には楽ですね、楽と言うよりもむしろ有難いですね、有難いなあと、そう言う頂き方が楽です そう言う頂き方が一番良いのです、ところが日日が段々たつに従って最近、私も不思議に思うのですけれども熱心に良く参って見えられるのですけれども、お参りしてこられるたんびにそのお届けに嫁さんの事が出てくるのです、悪口ではないのですけれども、昨日はああでしたこうでしたと、まあ言うならば嫁にたいする不平であり不満です。
私も四五日はだまって聞きよったんですけど、聞いとりました、まあそんなもんだろうかと、矢張りあらが出て来る、あらが見えてくると、ああなってくれればよいが、こうもあってくれれば良いのにと、思うのは当然だと思うのですが、例えば嫁なら嫁に対してもです そう言う目にあまる様に嫁の在り方が見えたり、不平不足に感じたりするときには、もうこれは楽ではないですね信心しておっても容易い事ではないわけです。
それで私が四五日前だったと思うのです、兎に角自分の家の嫁には違いないのですからね と言うのはど言う事かと言うとね、自分方に丁度釣り合った嫁だからねと、子供から言うても丁度であり姑親から言うても丁度自分に対する嫁であると言う事である、ね、これは御理解にこれは夫婦の事ですけれども、自分がヒヨットコに見える時には自分自信がお多福さんである事を悟れと、嫁御がお多福さんに見える時には、自分自信がヒヨットコである事を知れと、そのように釣り合うとるのである。
これは器量の事ではありませんこれは言うならば徳分とでも申しましょうか、釣り合わざるは不縁の元と申しますが、離れなければならない別れなければならないと言うならね、これは愈々差が出て来るのですから、自分ところの嫁だと自分の家に丁度よい嫁は神様は与えて下さるんだと、私はその事を申しましたらもう本当に日頃教えを頂いておる事は素晴らしいと思いました、言うならば信心に依って本当な事が段々わかって来ておる、ですからほんに親先生そうでしたと言うて帰られましたが、昨日お参りして来てから、本当に家の嫁であり家に丁度よい嫁であり、自分に丁度よい言うならば良すぎもせん悪すぎもせん丁度良いのが私の嫁だと、良い嫁だとわからせて貰ったらこんどは嫁の良いところばかりが見える様になったと、昨日お届けがあったんです本当な事がわかるとそんなに楽になるのです。
様様な難儀がありますけどその難儀がです、自分の事の自分に丁度よいまあそれが苦しい事であるならば、その苦しい事を思いを、しなければならない自分だと言う時にです、思いは軽くなる、例えばよく申します、自分は悪い事はせんのにどうしてこんなに悪い事ばかり続くんだろうかと、そこには難儀が感じられる、こう言う目に合わない方は自分自身がもっているんだと言う事を、真実をわからしてもらう、いわばこう言う難儀を感じなければならないめぐりを持っておるのだから、とこれは本当なことがわかったら、やれ痛や、今みかげと言う事が分かって来るのです。
苦しいけど今めぐりのおとり払いを頂いてから、までは現在の自分からそれは釣り合うたものであると言う事が、これは本当の事がわかる事が楽になるのです、私は今日は信心は容易いと言うところはです、本当の信心が分からなければいけない、本当の事がわかるとです、家の嫁に対する不平不満が反対に有難いものになって来る、だから難儀を感じている間はねまだ本当な事わかってないのですから、愈々本当なことがわかる信心をさせて貰わねばいけません、そんなら本当の事を教えて頂いてもです、本当な事と本当に実感出来ないのですから、これはやはり初めから私?はおりませんから一つ一つ体験させて貰って同時にわかって行くのです。
それがならどう言う事かと言うと、難儀をそこに感ずるだから神様に向かわねばおられない、私は今朝方お夢を頂いたのに、何かに追われておる様な感じて山を一生懸命登りよるところを頂きました、そう言う様な漠然としたお夢でしたけど夢を頂いておった、ああ今朝ああ言う夢を頂いとった思うて、御祈念もさして貰いこの教典を開かせて貰ったら、この六十九節でした、信心は容易いものじゃと言われる、ところがです何かに追われる様に山に向かって上に登って行くと言うところを、と言う事はこれは信心を頂いている者の姿だと思います。
難儀を感ずれば感ずる程、言うならばめぐりに追われとれば追われとる程、神様に向かって上の方へ登る以外にはない、そして一歩でも上に登らして頂けば一歩だけ本当な事がわかる、言わば頂上を極めると言うか、信心を極めて行けば行く程に本当な事が分かると言う事です、難儀様のおかげで信心が出来る、信心が出来ると言う事は本当な事がわかると言う事です。本当の事が分かってから、もうそこには難儀が難儀と感じられない、所謂何かに追い立てられるように信心をさせて頂いたが、此処まで登って来ておるそれが信心がなかったら、かえって楽な方へ下の方へと行く様な事になるのじゃないだろうかと思います、信心を頂いとりますから難儀を感ずれば感ずる程、神様と言う一心が強くなる、だから上の方へ登って行く、上へ登って行くと言う事は本当な方へと本当な方へと、一歩宛でも近ずいておると言う事である、本当な事が分かって来れば来る程に楽になって来ると言うのです、それが難儀が消えたとか無くなったと言う事じゃない、例えばなら嫁さんが一遍によい嫁さんになると言う事ではないけれどもね、本当な事がわからん時それが自分の家の嫁だと自分方に丁度釣り合うた者を神様がいわば下さってあるんだと分かると言う事は本当な事が分かった事ですね。
本当な事がわかった時にです、それは不平でもない不足でもない、ほんにあれが丁度家に釣り合った嫁さんだと判った時にです、こんどは嫁の良いところが見えて来た、信心とはその様に心が楽になる、そう言う今度は楽な心で信心は願って行くと言う事になるのです、信心はやはり有難い心、楽な心で願わなければいけません、本当のおかげになりません。お道の信心はあれを食べてはならん、これを飲んではいけないああしてはいけない、こうしてはいけないと言う様な事は教えておりません、まあ言うならば在るがままに人間の言うならば在るがままに成るがままに、人間言うならば本能的な行き方を教えに基ずいて、只その日その日を過ごして行く事がです、それでその日その日の立ち行きができるのだと教えられております、その日その日が立ち行けば楽なんだ。
只言うならば我情我欲ではいけないと、例えば食べ物でも大酒大食はいけないぞと教えておるのです、教祖はねそれはどう言う事かと言うと、お前の事と思うからなのである、お前の家の事を思うからである、大酒大食はいけないそれはお前のからだのためにいけないから、大酒大食はいけない、為すことすることでもそうである、ああしてはならんこうしてはならん言う事は決してないけれどもね、我情我欲でそれはなしてはいけないと言う事である、それはお前の家の為にならんからであり、お前の為にならないからであります、決して神様のためではないのです。
私はそう言うところにです、お道の信心の成程教祖様が容易いものじゃと仰ったのはそこだと思うです、お道の信心を極めるためには妻帯をしてはならないとか、本当に信心を極めるためには、生臭気を食べてはならないとか、お道の信者になったならば酒類は一切飲んじゃならないとか言う厳しい戒律を持った宗教ばかりです、そう言う意味で金光教は世界の名教だと言われる素晴らしさを感じます、それこそ飲む事も食べる事もすることも行う事すべてがです、自分の生きて行く事のために言うならば自分の命のためにと言う事であり、することであり食べる事であり、飲む事であると言うのですからね、容易いでしょう、そう言う意味でです私は? ?信心は容易いものじゃがと、のっけから言っておられる容易いと言う事、今日はだからいつも聞いて頂いている事とは全然角度が違いますね、ですからどう言う事かと言うと、信心の稽古をして本当な事がわかると言う事、言うなら神慮を追求してと言う事、そして法則に従った行き方をすると言う事は、酒を呑んではならぬ、人間の持っておる本能的なものをそのまま食べたいなら食べる、したいならするそして行きながらの行き方を身につけて行く事、但しお前の命のためにお前の家のために食べすぎてはいけないぞ、呑みすぎてはいれないぞ、我情我欲でなしてはいけないぞと、言う事になるのです。
難しいと言うならああしてはならんあれを食べてはならんと言うならばです、これは大変に信心は難しいものと言わねばならん、けれどもね言うならばしたい放題と言う事ではない、何をしてもよいと言うのである、何を食べてもよいと言うのである、それは命のためにと言うことをいつも心がけとかねばならない、自分自身のために例えば何をしても良い 人を殺しても良いと言う様なね、それで自分の心が全然犯されないならば、それは良いかも知れませんね、けれども人殺しをしたと言う自分で自分の心を、共費に苦しむ様な事はしてはならないと言う事である、所謂我情であっては、我欲であってならぬ、大食であり大酒であってはいけないと言うのでございます。
食べても良いぞ飲んでも良いぞ、しても良い行っても良いぞとそうしながらでもです、私共がそこに痛い熱いを感ずる、難儀をかんずるそう言う時にです言うならば信心、本当な事がわかると言う事、そしてその難儀とは自分と丁度釣り合ったものであると、言う事がわかる、又そのなんぎにお尻を叩かれる様に、上に向かって進んで行く所謂本当な事を求めて、信心の山を登って行く、一遍にはわからないけど段々分かって行く、本当な事が分かってくる。本当なところがわかったところにはもう難儀はないのです、と言うて嫁さんが一遍に良い嫁さんになったと言うのではないです、本当な事がわかったらああこれが丁度自分に釣り合った嫁であったと分かる事なんです。
姑ばばさんだけが立派で嫁だけが悪いと言う事は決してないです、自分に釣り合った、自分の家に釣り合った、これは真理がわからないとそれが実感として分からないなのです、二十八年の大洪水のとはに椛目の大広前の畳みが全部腐ってしまいましてね、あれを新道側の方へこうして立て掛けてあった、何日たっても何日たっても誰も片付けようとしない余程皆に言うてから取り片付けようと言おうと思うたけれどもです、そう言う例えば段々畳みが腐って来ると臭いがする様になる、どうしてこげんろくそなかっちゃろうか、こげん放うたらかしてからと、そう言う汚いものが自分のそばにあると言う事が、そしたら神様が今日皆さんに聞いて頂いとる様なね、それが丁度お前の信心がそれだけだと言う様な意味の事を頂いたんです。
それからほんにそうどころじゃない、ならこれが何日放うからされて腐ってぷんぷんする様になってもね、もうこれが信心なのだからもしそれが嫌ならばもうちょっとこっちが、増しな自分にならして頂く事に、ならせて頂かにゃならんと気付かせて頂いたら、翌る日、そこをトラックで通りかかった人が、もしお宅の畳みがあれが捨てなさるとならば家に頂けんだろうかと言うて、ああ持って行ってくださいと言うてトラックで全部運んで頂いた事がある、それがその翌日でした、それが自分に丁度釣り合ったものなんだから、その難儀がなら嫌だと思うならば、その嫁の姿がです目に余って見えるならばです、もっと増しな嫁に成って貰うならば、もっと増しな親にならなければいけないと言う事なんです、もっと増しな嫁になって貰うならば、もっと増しな親にならなければいけないと言う事なんです、楽です信心は、だから、
けれども家の信者は誰でも気付かん、こげん腐っとるとばいつまでも放うからけちからと言う間はそれじゃ助からない、いつまでも助からないいつまでも助からない、けれどもそれがだから私はああせにゃいかんこうせにゃいかんとは言わない、それは目に余る様な事があるならばです、それを自分の心の中に持って行くそしてもっと増しなおかげを頂きたいならば、もっと増しな自分に精進する事以外にない、そう言う行き方の信心を私は今日は容易いと聞いて頂いたと言う様な真実が判らせて頂いたらです、自分の心の中に何と素晴らしい有難い事だろうかと分かった心が我ながら有難いのです、そう言う信心が十年も続いて行くならもう我が心を拝まにゃおられん、祭らにゃおられんのです、一足飛びにはできません。
難儀に言うならば尻を叩かれる様にして、山を登って行く、一遍に一足飛びに登って行く訳にはいきません、一歩一歩登って行くその山にです、一歩一歩本当の事に近付かせて頂くと言う事がです、真理を体得して行く者の楽しみだと思います、天地の一つの掟と言うか法則の中にはです、こう言う様な心の状態になったら楽になれるおかげになれると言う 一つの掟がある、約束がある。その約束に従って行く行き方をです、教祖の神様は大酒大食はいけない我情我欲ではいけない、と教えておられるのです、そしてそれをひっくり返して言うとです、何をしても良い何を食べても良いと言う、言うならば楽な行き方いやそれが人間らしい信心であり、宗教だと言う事も言えるのです。
人間が人間らしくない行き方、何か聖人君子の様な生き方、なら果たして聖人君子と言われる人がです、食べもせん飲みもせん任もせんと言う様な事があろう筈がない、私共は聖人君子と言った様な道徳的なそう言うものを、求めたり願ったりするものでなくてどこまでもです、我と我が心が拝められる神を、生き神を目指して行くのがお道の信心なんです、それには本当な事が分かると言う事、そこに本当な事が分かると言う事、そこに本当な言うならば法に従った行き方が自ずと出来て来る様になる、それはその山を極めて行けば行く程に自ずと身に付いてくるものであると言う事をね。
信心はこれは本当に容易いものだとね、金光様の信心しよりゃこうせんならんああせんならんと言う事は決してない、言わばあるがままにするがままに、いうなら自由無碍な行き方を求めて行く行き方ですから、成程信心は容易いと言う事が言えるのです。
信心が容易うならなければ有り難うなれません、それもですやはりなら難儀をそこに感ずるから、その難儀にお尻を叩かれてまあ苦しければば苦しいで、私共は神様を称え神様をお縋りして行く、それが一歩一歩山を頂上を目指して極めて行く事になるのです。だからめぐりが大きければ大きいだけおかげが大きいと言われるのはそう言う事です、めぐりが大きければ大きい程、難儀が大きければ大きい程、その山に登って行かなければなりません、それが信心です。
不思議に登ろうごとないときにです、登って行くと言うのではなくてです、何かに追われておる様なときには、もう一生懸命ですからどうしてこげんとこ登って来たじゃろかと言うところを登っとるです、ですからその持っておる難儀そのもののおかげで、その山登りが出来るわけです、そう言う事も容易いと言えれるでしょうね。
信心は容易いと言うとこの違った、今まで聞いて頂いた事のない様な違った意味で今日は聞いて頂きましたですね。どうぞ。